70代半ばの母が13歳の少女だった頃のことです。 母は羽田の近くに住んでいて 飛行機に乗る 兵隊さんの航空食を作る仕事をしていました。 勤労動員です。
昭和19年の東京大空襲のその日、 仕事が休みの母は羽田の海へ アサリを採りに行き、とても疲れて家で眠っていました。 空襲警報が鳴り、 B 29機がたくさん飛んできて、 いつもと様子が違うと判断した母の父は、庭に掘った 防空壕から出るように家族にいい、着られるだけ多く着物を着け 風呂敷 布団を頭から被り、まだ幼い妹を背負い 、一番上 の兄と弟は疎開をしていて不在だったので 、それ以外の家族で多摩川を、20分以上はかけ、主流に向かって歩きました。
手の届くところに 焼夷弾が落ちてきて 燃えた火の粉がパラパラ落ちてきた。家の方向を見るとそこは火の海でもう少し出るのが遅かったら死んでいたと思いました。その夜は川の低い 土手のところで体を伏せて あーこれで死んじゃうんだと思って眠りにつきました。川向こうの川崎の軍需工場の油のタンクが赤々と燃えていて 不思議と綺麗だなと感じました。家は全焼。黒焦げ。次の朝起きてみると 家族 の誰も死なず 揃っていて 品川まで国道を歩きました。鉄橋の下にはたくさんの人が死んでいました。近所に住んでいた男の子は弾が肘にあたり 出血多量で薬もなく お医者さんもいない 中、亡くなられました。とても賢い 良い子だったのに。防空壕に子供を残して逃げた自分のことを激しく責め 泣いていたのを見た方もいました。 体が重く、いくら起こしても目を覚ましてくれなかったそうです 。勤労奉仕でよほど疲れていたのでしょう。仕方がないですよ、と声をかけるしかできなかったです。
そのような悲惨な状況の中でも婦人会の方達がお茶を沸かしてくださり、そのお茶の美味しかったこと。その後 木更津の親戚を頼り、慣れない 田んぼで働いた際には、手にマメを作りバイキンが傷口から入ったため 化膿し、切開をしました。また、航空基地が近くにあるため 空襲に遭い、機銃掃射の弾が耳のすれすれに飛んで来る中で 、米俵の陰に隠れたりしました。その時に 低空飛行の操縦席にアメリカ兵の 顔が見え、自分と同じ人間で、綺麗な青い目をしていたのを覚えています。
これは、この秋に94歳となる私の母の戦争体験です。今はもう耳も遠く、会話もスムーズではなくなってしまいましたが、二十年ほど前に聞きとりをし記録したものです。直に被災した年代の人々が徐々にいなくなっているという報道を見て、ここに載せることにしました。
戦争で命を落とされた方、被災者すべての方に対して、深く祈りをささげますとともに、戦禍を生き延びた母の強さ、逞しさに対し、驚きや尊敬の感情が湧き、生き延びたその遺伝子を継いでいる事に誇りを持ってもよいのかなと、思います。
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