世の中の「基準」「デフォルト」に目を向ける
過日の、朝日新聞にこんな見出しの記事が載っていた。
「誰もが扱いやすく、手術器具改良」
合理的配慮、とか、アクセシビリティ、とかいった「障がい者」に係る領域について言及されているのかと思った。読んでみると、ジェンダー平等に関する内容だった。
「・・・外科手術などで使う医療機器は、外資メーカーのものも多く、欧米の男性の手を標準に開発されていることがある。その場合、日本人の女性医師には重さや大きさなどの点で使いづらい。・・・」(記事より引用)のだという。
こうした課題をうけて、腸管をつなぐための機器「自動吻合(ふんごう)器」を電動化する動きにつながっているとのこと。
農機についても同様の課題があるようだ。
そもそも男性が使うことのみを想定して作られたものなのだろう。
農作業は、女性も行うのにな。「おんなは機械に弱いから、男が使うのが当たり前」という前提に立ってのものなのだろうか。
きっと建設現場などでも同様なんだろうなとふと思う。
1991年発刊の本に「ファンシーの研究 : 「かわいい」がヒト、モノ、カネを支配する」(文春ユネスコ/島村麻里著)というものがある。「女子ウケ」させることを目的にミニ油圧ショベルなどに丸みを持たせ、色合いもパステルカラーにして売上アップを狙う、といったことが書かれていたと記憶している。操作がしやすく、座るところも低めにしてあるなどの仕様にしてあるのかもしれない。
1991年といえば世はまだバブルの空気のさなかにあった。肉体労働系の業界は、就業先として敬遠されていたであろう。建設現場など人材不足の業界において女性の働き手を取り込みたい思惑にもつながっていたのだろうけれど。
とはいえ今、世の中は、商品やサービス、ときには公共の場所のさまざまな設備の仕様の「基準」は「男性」だ。
薬剤においても、容量にある「成人」は成人「男性」を基準にしているという。
小柄で体重も少ない女性が、わたしは成人だから、とその容量で薬を服用すると健康を害する危険もある。
ジェンダーギャップ、家父長制は、ふだん何げなく接しているものや「そういうもの」と見過ごしている事柄のなかにも潜んでいる。
はたらきやすさ、健康、安心。
女性たちは、あたり前に享受したいあらゆる「〜やすさ」を、家父長制によって阻害されている。
参考:2024年10月4日朝日新聞
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