みんな同じ、ってどういうことだろう
平等とか差別とか対等などの言葉がでてくる文脈とからめて「優遇しすぎていて逆に不平等なんじゃないの?」という捉え方がでてくる場合がある。
たとえば、障がい者のための、なんとか。障がい者用のトイレがあったり、車椅子を用いる方を優先させなさい、とある座席やエレベーター。
「急を要するのは私だってそう」
「自分だって疲れているのに」
「階段つかれるじゃん」・・・
実際に口に出してそんなこと、言う人はいないと思うけど、そんな思いを抱く人はいる。顕著なのは、ジェンダー平等に関することだ。ひとつは女性専用車両だろう。混雑する時間帯に、女性専用車両を設けるなんて、逆に不平等じゃない?などと言う人たちがいる。
しかし、そもそもなぜ専用車両が必要になったのか。考える必要があるし、それよりまずわかるよね、言わずもがな、だ。
痴漢という性犯罪が男性が乗る車両で起こり、女性たちは不快かつ怖い思いをしている。被害にあっても声を上げることができない場合がある。こうした酷い状況をなくすための措置だ。性被害の前提となる「男性」を遠ざけ、女性たちに安全で、安心な通勤時間を作るのだ。
また選挙にからむ「クォータ制」。当選枠に一定の比率で女性に当選枠を割り当てる制度だ。
今まで「オールドボーイズクラブ」とも呼ばれる、「おじさん仲良しクラブ」による家父長、偏り政治に一石を投じることが目的だといえよう。多様な考え方や取り組み、女性ならではの生活者視点を取り入れておっさん政治が取りこぼしてきた課題を可視化させ、施策実現に向けて国民全体の利益を広げていこうよという考え方に基づくと理解している。
前提とか背景と言われるものに目を向け、そもそもおかしいことに焦点を当て、そこから変えていく必要があるよね、という考え方だ。
アファーマティブアクション、という言葉を先日ラジオで聞いた。アメリカでは、有色国民の雇用が安定せず、低収入の仕事への就業に偏り往々にして貧困や低所得のまま、という状況がある。これを改善するのが、目的の一つとしてある。たんに、就職の際に一定割合で採用するのを義務付けるのではなく、比較的高収入につながる仕事につきやすいよう、高等教育の機会も広げていく取り組みも行われているという。
前提を変えていく、という点でクォータ制や女性専用車両と同様の考え方だ。
障害者支援の文脈では、アクセシビリティの取り組みが該当するのかな。これは、障害者と健常者がいるときどちらかだけがストレスなく、よけいな心配をすることなく過ごせたり、どちらかだけが、我慢や不便な思いをする事態を減らすために、互いがどのような工夫をすればよいかに向かってアクセスしていく、との意味だと捉えている。着地点を見つける営みともいえるだろうか。
平等や対等は、なんでもかんでも同じにすれば良いという単純な考えでは実現には遠い。女性と男性はそもそも体のつくりや体力という点で大きく異なることだって多い。
いつだって、誰かが極端に我慢していないか、偏った状況になっているのは何故か、常に観察し思考し続けることが必要なのだろう。
かくいう私だって、こどもの貧困?なんだそれ、日本にはまさかないよ、と思っていたクチだ。今、何も不安を感じないで安心して暮らせるのだとしたら、そうではない人がいるにちがいない。世の中の事象の裏側、目に見えない事柄に、常に想像力を巡らせる必要があるのだと、思うのだ。
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