家族は再生すべき?
家族と国家は共謀する
第1部 家族とあいう政治
2章 家族は再生するのか――加害・被害の果てに
朝の読書会。
冒頭から「この章はとくに読んでいると気持ち悪くなる」との発言がある。
たしかに。
気持ち悪い。
けれでもきっと直視しなきゃけない真実なのだと感じる。
日本における「なかむつまじい家族」「おしどり夫婦」とう至高の理想、価値観がガラガラと崩れるからだ。
●「夫婦とは夫とは、そういうものなのだ、仕方ない、夫婦の問題だ」
●「親なんだから子どもに対しては、まっとうな大人に育てる責任や義務がある。これを●達成するためには多少きびしいしつけをしても問題ない」
●家族において「くるしい、いやだ」は、個人の甘え。それを我慢して克服してこそ社会で通用する常識的な立派な大人になれる
日本に長らく、あえていうなら「巣食って」きた価値観は、実は国家が国を操縦しやすくするために巧妙に仕組まれまかれた「ウィルス」とも等しいのではないかと思えてくる。
家父長礼賛、企業戦士が国の繁栄を司る、企業戦士を支えるのは”銃後の”母、妻、国の繁栄のためには産み増やすこと、外部から見て子産みが認識できない夫婦は「常識」を備えて隣人や親戚たちの監視のもと「お子さんはまだ?」という柔らかな言葉かけにより子産みと育の強制圧力にさらされる。
しかし人間には「自らの意思」があり、「志向」も「思考」もある。国家の至高のために生きているわけではない。
だから、コンフリクトが起きる。
家庭内で夫婦間で親子間で。
それは家庭内暴力となって膿が噴出される。
夫婦間の関係不均衡、夫の妻に対するDV、児童虐待というゆがんだかたちで現れる。
家庭崩壊。
夫婦、親子の断絶。
家庭内別居、離婚。
それでもひとは、家庭や家族、夫婦の結びつきから逃れられない。それどころかあえて「楽園」を期待し、次のステージに希望をいだく。あらたな関係性構築に向け歩をすすめる。
本章の問いかけ「家族は再生するのか」という言葉に立ち返ってみる。
心地よく、対等な人間関係が築けて、心理的身体的安全性をいつでも実感できる「家族」ならウェルカムだ。
冒頭に書いたもやもやとした「きもちわるさ」はない。
しかしときに再生は困難だ。
自らをかえりみれば、人はそう、ドラスティックに変わらない。
知見は十分に生かされず経験値はおもうように高まら無い。
それなら再生はほんとうに必要なのだろうか?
家族でなくても、ここちよい人間関係は構築できる。
「おひとりさま」が時間的場所的に部分的にむすびつき、自身を大切にする時間をもっとも優先する生き方もあるのではないか。
読書会の時間では、結論は見えなかった。
わたしたちは考え続け、試行錯誤を繰り返す。
フェミニストとして。
0コメント