「わたしを理解しない母」のこと
母親にはいつしか、何も期待しないようになった。
期待・・・といってもいろいろあるなか、「私の相談にのって」という求めに応じて欲しいと言う期待をしなくなったということだ。
あえていえば。
彼女=80代半ばは、娘の深い、知性に満ちた思考や悩みの表面さえも理解しないからだ。
我が母の場合は「そんなの大したことないじゃないの。もっと大変なひとはいるでしょ」の一言で片付けるのが席の山。
一方、いらつくのが、世間体や「おとなの事情」「親戚への顔向け」にかかわる事柄には、しつこいほど攻めて(責めて)くるところだ。
人の苦悩はそれぞれだ。
もやもやする、痛みを感じる、悩みつくしても答えは見つからない、見つかったと思っても一歩踏み出せずにもとの場所に戻ってしまう・・・そんなこと、誰にでもあるだろう。
ただ、私の場合は、いまならそれがわかる、とも言える。
親たちの世代は、戦中・戦後世代を生きてきた。
いっときは生きるか死ぬかの紙一重の生活を送っていたことも事実。
我が母は、高校時代に学業成績がよかったようで、さらに知性を追求してはどうかと、教師に大学進学を勧められるも、家族のために、兄弟姉妹のためにその選択を手放し働く道を選んだ。
祖父(母の父親)は、今でいうなら戦争中の記憶に苛まれて暴力を伴うアルコール依存症にもなった。
罵る、なぐる、執拗に叱り続ける。
祖母(妻)も母(娘)も、それは辛い時間を過ごした。
叔父(母の弟)は、母親を庇うために父に立ち向かったとも聞いた。
そんなわたしは50代後半。
それなりのモヤモヤ体験を経てきて、どこか開き直っているところもある。
手放したことは多くなった。あきらめた、とも言えるかもしれない。
一歩踏み出せなかったり、長くその場に止まってしまうようなもやもやを、もはや理解できなくなっているのかもしれないとも思う。
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