「将来が楽しみ」
インドに住む友人のむすこさんの成長に目をみはる。
遠くに住む者には「ちょっとまえ」まで、赤ちゃんで、よちよちうろうろ歩きまわって目が話せなかったのに、と感じる。
むすこさんは、一足飛びにたくましき「少年」になっていた。
そのむすこくんに、直接会った知人(ちなみに男性)が、「彼はとても頭がいい、将来が楽しみ」とコメントしていた。
おおそれはすばらしいね!と思う半面、ふと「どんな『将来』を期待してそれを楽しみと思っているのだろうな」と疑問をもった。
おそらく知人男性は「社会、おもに経済界、もしかしたら政界の第一線で活躍する人物」を想定していっていたのだろう。
それを「楽しみ、期待できる」思考ってなんだろう。どんなことが前提なのだろう。
たしかに彼の指すである「将来」の活躍も、一つの「たのしみ」ではある。
だけど。
「楽しみ」な「将来」はそれだけではないはずだ。
世界を俯瞰でき視座、おとこもおんなも、人種も国籍も、年齢も障害の有無も関係なく、だれにも平等な気持ちで接することができ、自らそういう環境、社会を作り出すことに労力を厭わない姿勢。
もし、知人の彼が、ひとつの価値観=家父長ワールドに基づく将来を思い描いていたとしたら、なんだかなあと思う。
少なくとも、いまのニッポンは経済界も政界もおっさんが闊歩している。
男性優位社会、男性先導社会だ。
そのおっさん界の一員に受け入れられてめざましく活躍するとは?
少年の成長はそれだけであってほしくない。あってはならない、と強く思ってしまう。
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